じん肺と3.11原発事故(三題噺っぽいですが、そうではありません)
現在、原子力発電所の安全について規制を行う原子力規制庁、原子力規制委員会は環境省のもとにありますが、3.11前は通産省の原子力保安院が担当していました。これがじん肺に大いに関係するのです。
戦後すぐ、炭鉱や鉱山の保安(安全、衛生など)の担当を、労働省と通産省が取り合いをしました。
労働省はこのころはたいへん意欲的な役所で、昭和30年ころまでに全国巡回けい肺検診や、政府じん肺検診などの大事業を積極的に行い、多くのじん肺患者を明らかにしてきました。じん肺は当時から我が国最大の職業病をいわれており、労働省はじん肺をはじめ、火災や落盤など危険が多い炭鉱などの鉱山の安全のためには、自分こそが取り締まりを行う必要があると考えていたのです。
これに対して通産省は、当時石炭は我が国の戦後復興のために必要だとして、「生産と保安は車の両輪」と言って、自分が担当すべきだと主張していました。
この争いは通産省が勝利します。ごく一部を除いて通産省が鉱山の保安を所管することになりました。昭和24年のことです。通産省のもとに鉱山保安監督局、鉱山保安監督部などの役所がもうけられました。きちんと取り締まりが行われれば、それでもよかったのかもしれません。
しかし、通産省は「車の両輪」ということをねじ曲げ、「保安は掘らないための保安ではなく、あくまでも合理的に掘るための保安である」「保安はすなわち生産であり」などと言って生産の面を強調する姿勢を示したのです。たいへん露骨な言葉だと思うのですが、それが堂々と国の文書(昭和25年度通商産業省年報)に出ているのです。
このような考えで生産が優先された結果、炭鉱での規制は緩いものになってしまいました。後に私たちが起こした筑豊じん肺訴訟の判決で、不十分な規制であって国にじん肺を発生させた責任があると判断されることになったのです。
通産省の鉱山保安監督局、鉱山保安監督部は、その後産業保安監督部、産業保安院と名を変え、原子力も担当することになって「原子力保安院」となっていきました。どうやらその間ずっと生産優先のDNAが残り続けたようです。それが3.11の際の原発事故を生んだのではないでしょうか。
「生産のために安全がある」などという考えでは不十分だという声を今後ともあげ続ける必要があるようです。