ヒトラーの広報戦略!?
ヒトラーの広報戦略
ナチス・ドイツのヒトラーは、よく知られているとおり、大衆扇動家としての能力は高いものがありました。行きつく先は「地獄」であっても、大衆にはこの道こそが天国に至る道であると信じさせ、国民全体を破滅の方向へ突き進ませました。
ヒトラーに対する熱狂的な支持が、本当に心からの支持だったのか今となってはわかりませんが、少なくとも相当程度の割合の国民が熱烈に支持していたことは事実なのでしょう。その熱烈な支持を生み出した大きな要因に、マスメディアの利用があります。ヒトラーは、大衆を扇動するためにマスメディアをどう利用すべきか、どういう情報発信をすれば大衆が食いつくかを徹底的に研究していました。マスメディアの利用方法に関するヒトラーの考え方は、『わが闘争』の中でも詳しく紹介されています。
ヒトラーは、チラシ、ポスター、新聞、ラジオという当時の最新メディアを駆使して支持を広げていきました。過激なコピーも多用していました。メディアリテラシーという言葉は存在しなかった当時、ヒトラーの発する過激な宣伝文句を素直に受け取る大衆も少なくなかったのかもしれません。
現在、メディアの形は大きく変わりましたが、情報を受け取る側のメディアリテラシーはどれほど高まっているでしょうか。過激な宣伝文句が自分の中の不安や不満に答えてくれると感じられるときもあるかもしれませんが、情報の受け止め方は注意してもし過ぎることはありません。
SNSを含むインターネット上の情報は、すべてを鵜吞みするのではなく、メディアリテラシーを意識するように注意しましょう。
情報を発信する側に大衆扇動的な意図がある場合があるというのは、現在も変わりません。ヒトラーのような人物は、そういう狙いをもってマスメディアやSNSを使おうとします。反面教師として、参考に、ヒトラーの考え方の一端をご紹介します。
アドルフ・ヒトラー 平野一郎・将積茂訳『わが闘争(上)』角川文庫より
宣伝は永久にただ大衆にのみ向けられるべきである!(258頁)
その作用はいつもより多く感情に向かい、いわゆる知性に対してはおおいに制限しなければならない。
宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣言が目ざすべきものの中で最低級のものが分かる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。(259頁)
宣伝の学術的な余計なものが少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。
「三つの新聞読者グループ」(340~343頁)
新聞の読者はその際、一般に三つのグループの分離されうる。
すなわち、第一は読んだものを全部信じる人々、
第二はもはやまったく信じない人々、
第三は読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々、である。
第一のグループは数字の上からは、けたはずれの最大グループである。かれらは大衆からなっており、したがって国民の中では精神的にもっとも単純な部分を表している。…大衆を意味するこれらすべての人々にとって、新聞の影響はまったく驚くべきものであるだろう。かれらは提供されたものを自分で吟味する境遇にもないし、またそんな意志もないので、あらゆる時事問題に対する彼らの一般的態度というものは、ほとんど例外なく他からの外的影響に還元できるのである。このことは、かれらの啓蒙が、真剣で真理を愛する方面から企てられるならば有利であるだろうが、しかし人間のくずや、うそつきがこれに手を出す場合には有害となる。
第二のグループは数ではまったく決定的に少なくなる。かれらの一部は、最初は第一のグループにはいっていたが、長い間の苦い幻滅を経験した後いまや反対側に移って、ただ印刷されて目に映るものならばなんでも、もはや全然信じなくなってしまった分子から構成されている。かれらは新聞という新聞を憎み、およそ読まないか、あるいは、その内容がかれらの意見からすれば、まったくうそと、事実でないことだけで構成されているにすぎないのだから、例外なしに、そうした内容に憤慨するかである。なにしろ真実に対してもつねに疑ってかかるだろうから。これらの人々はきわめて取扱いがむずかしい。かれらはそれゆえ、あらゆる積極的な仕事に対してはだめな人間である。
最後に第三のグループはけたはずれて最少のグループである。かれらは生まれつきの素養と教育によって自分で考えることを教えられ、あらゆることについてかれ自身の判断を形成することに努力し、また読んだものはすべてきわめて根本的にもう一度自己の吟味にかけて、その先の結論を引きだすような、精神的にじつに洗練された頭脳をもった人々からなり立つ。
大衆の投票用紙があらゆることに判決を下す今日では、決定的な価値まったく最大多数グループにある。そしてこれこそ第一のグループ、つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群衆なのである。