梶原恒夫 弁護士記事

2023年5月22日(月)

カフカの『変身』を「ある過労死予備軍の青年労働者とその一家の物語」として読んでみる

『城』や『審判』(『訴訟』と訳されることもある)など、フランツ・カフカの小説は、どれも不思議というかヘンテコな内容のものばかり。

この点、松原好次という人は、カフカは非現実な話であると仄めかしながら、現実と非現実の境界スレスレの描き方をすると分析しています。同氏によれば、現実と非現実は画然と分かたれているのではなく正に背中合わせに接しているのだという真実、このギリギリの描き方でカフカは書いているとのこと(『カフカエスクを超えて』参照)。そういわれれば、確かに、『城』という未完の長編においても、雪に閉ざされた異常な(と思われる)世界における、奇妙な会話とそこから読み取れる歪んだ心理状態が延々と描かれるが、それでいて私たちの生きている現実社会の有様とどこか通じているような感覚を私は感じましたし、『審判』においても、実際の訴訟手続とはかけ離れた非現実的な進行が語られているが、それにもかかわらず、読者である私は何故か主人公Kに関する訴訟の成り行きを心配しながら読み進めさせられる。ある種の息苦しさ、緊迫感、さらには焦燥感をひしひしと感じさせられながら、どうしても先を読み進めたくなるのでした。「へんてこな経過をつづった小説でありながら、読者は呪縛されたように読み進んでいく。」とは、訳者である池内紀氏の解説にある一文です。

さて、最近、「ある朝、目が覚めてみると虫になっていた」旨の書き出しで始まる、カフカの有名な中編小説『変身』を読んでみました。私が読んだのは、多和田葉子氏の翻訳によるもので(集英社文庫版)、その訳によればこの小説の出だしは、「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。」となります。(ちなみに、このUngezieferというドイツ語を私の電子辞書で見ると害虫あるいは害獣と出てきます。)これまた当然のようにへんてこな小説でした。どうしてカフカはこんなへんてこな小説を書いたのだろうと思い、私は、この小説から一体何を読み取るべきなのか、考えてみました。

この小説は、主人公であるグレゴールが何らかの異形のもの(従来の日本語訳では「毒虫」または単に「虫」とされてきたようです)に変身してしまったという超常現象を除けば、日常生活にはあり得ないような出来事は何も描かれていません。したがって、主人公の変身という非現実的な出来事を、主人公が重篤な病気、たとえば極度のうつ病に罹患してしまい外に出ることができなくなったという現実にもよく起こりうる出来事に置き換えれば、あとは多少の手直しをするだけで、この小説はそのまま、或る青年労働者一家の日常を描いたひとつの小説として成立するように思います。

この小説において、主人公であるグレゴールは、ある商品(おそらく婦人服?)のセールスマンとして、毎日のように遠くまで列車に乗って出張しなければならない日々を送ってきた青年労働者という設定で描かれています。「変身」した当日も、本来早朝5時の列車に乗って出張しなければならない出勤日でした。カフカは、主人公を金持ちの男でもなければ、就労前の学生などとして描くのではなく日々過重な労働に疲れている青年労働者として描いた。当然、ここにはカフカの或る思いが存するに違いないと私は感じました。彼は労働者への一定の眼差しをもった作家だったのだと思います。そして多分その眼差しはあたたかい眼差しだったのではないか。

この『変身』という小説が書かれた1912年は、既に産業資本主義の時代となっており、人々は競争に駆り立てられる日常を送っていた。グレゴールの父は、以前は羽振りの良い自営業者だったようですが、事業に失敗して借金を抱えた状態で、そのような中においてもなんとか惨めな生活にならないようにと主人公であるグレゴールは両親及び未成年の妹のために身を粉にして働いていました。

『変身』の中には、グレゴールが労働者として厳しい立場に置かれていたことを窺わせる複数の記述があります。そもそも当日、グレゴールが少し遅刻しただけでわざわざ会社の支配人が自宅まで押しかけてきて一家を恐縮させ、馘になる不安を与えるというシーンが、小説の冒頭の方に置かれています。また、グレゴールは、「こうして早起きばかりしていると頭が悪くなる」、「人間は睡眠をとらなければだめだ。」と呟きます。恐らくグレゴールは過労死予備軍だったのだと思われる。さらに、「自分ももっと他の社員のように楽をしたいといったら社長は自分を直ぐに馘にするだろうな」とグレゴールが独り言つ場面もあります。あるいは更に、「保険会社のお抱えの医師の見解では、すべての人間は健康であり、ただその一部が仕事を嫌う性質も持っているということになってしまう」という皮肉な一文もあります。

グレゴールは、父の事業の失敗という惨事から家族全員を救いたいという一心から、火がついたみたいに必死で働き、派遣社員から出張の多いセールスマンに昇格し、給料が前とは比べ物にならないくらいに増えた。しかし、小説をよく読むとグレゴールの労働契約は、終身雇用ではなく、いつ解雇されるか分からない不安定雇用のようです。しかし両親は終身雇用になったものと思い込んでおり、主人公との間に認識のズレがあって、そのことも主人公にとって大きなプレッシャーとなっているようなのです。

カフカは、産業資本主義社会の問題を告発するために『変身』という小説を書いたのではないでしょう。カフカは、およそ説教的なものを書いたりする作家とは思えません。しかし、ある朝突然に異形な毒虫に「変身」していたという超常的な設定の下ではあるが、ある青年労働者、しかも不安定な雇用の下で首になる恐れを抱きながら日々過重な労働に従事することを余儀なくされている青年労働者について、そして彼の収入によって辛うじて生活を送っている一家について描かれた物語として『変身』という小説を読み直してみると、単なる「へんてこだが面白い小説」というものに留まらない奥深さが読み取れるような気がします。やはりカフカは、労働者傷害保険協会において工場労働者の危険度が適切にランク付けされているかどうかを査定するという仕事に長年従事する中で、労働者に対するあたたかい眼差しを持つに至った作家だったのではないかと私は思います。ところで、皆さんは、カフカが、法学博士号を有した法律家であったということをご存知でしたか。

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弁護士紹介梶原 恒夫

梶原恒夫 弁護士

弁護士登録:1989年

主要な取組分野・フィールドは,「労働」をキーワードとする各種事件です。また,業務に関連して関心のある領域は,法哲学,社会思想,社会哲学です。常に勤労市民と一緒に活動していける弁護士でありたいと願っています。個別事件を普遍的な問題につなげながら。