小説と法律実務
まずは未知の作家との遭遇
私も最近、暇を見つけては小説を読むようになりました。その大半は、海外の作家の翻訳版です。本屋に行って、背表紙のタイトルをみて、何かピンと来るものを感じたら(この際の直観が重要です)、手に取り、装丁が気に入ったら購入する。これが私にとって未知の作家の本を選ぶときの手順です。本の装丁はとても重要で、「装丁が美的ではない本は買ってはならない」が私の鉄則です。いわゆるジャケ買い(大辞林・「レコード・CD・本などのカバーの印象が気に入って買うこと。ジャケット買い。」)です。この点、同僚の某弁護士が、かつて私のジャケ買いを揶揄したことがありますが、本は読むためだけにあるのではなく、自分の部屋を美しく飾るためにもあるものなので、決してジャケ買いを馬鹿にしてはいけません。
こうして未知との遭遇を果たし、一度気に入った作家(もはや未知の人ではない)の本は、その後手当たり次第に購入していきます。本は、古典といわれるものを別にすれば、意外と早く絶版になってしまい、二度と手に入らなくなるので、運よく遭遇した時に買っておく必要があります。
小説は「法律実務」にも役に立つ?!
ところで、そもそも小説は、「実利」ないし「利害」を離れて読むものであって、何らかの実利を得ようとして小説を読むのでは、読書の楽しさを感じることはできません。私の大好きなイタリアの小説家であるイタロ・カルビーノも、『なぜ古典を読むのか』という本の中で、「利害を離れた読書のなかでこそ、私たちは『自分だけ』のものになる本に出合うことができる。」と書いていますし、また「私たちが古典を読むのは、それが何かに『役立つから』ではない。私たちが古典を読まなければならない理由はただ一つしかない。それを読まないより、読んだほうがいいから、だ。」とも書いています。
ただ、ありがたいことに、小説を読むことは、日々の裁判において提出する書面(民事でいえば「準備書面」、刑事でいえば「弁論要旨」などの書面)を執筆する上で、大いに役立っています。それというのも、弁護士の仕事は、「生身の人間」や「生々しい現実の社会」を扱うものである以上、単に、事実を法律に当てはめて、こちらの主張の正当性を形式論理によって論証するだけでは足りないのです。そんな時、小説の中に示された人間や社会に対する深い洞察、味わい深い珠玉の文章表現、あるいは物語の説得力のある全体構成のありかた等々が、大変に参考になるのです。この点、「本当にそうか?」と問う人がいるかもしれませんが、幸い、私の作成する書面に私の読書の成果がどれほど反映されているかを検証することは誰にもできませんので、ここでは「本当です。」ということにしておきます。
最近読んだ、バルガス・リョサの『緑の家』という小説について
最近、ペルー人のノーベル賞作家であるバルガス=リョサという人の『緑の家』(木村榮一訳・岩波文庫)という小説を読みました。この作家の本を読んだのは初めてで、読み始めの段階では、一体どのような小説なのか全く見当もつきませんでした。この小説のスタイルは、私の常識から大きく懸け離れており、最初の頃はわけが分かりませんでした。場面が頻繁にコロコロと入れ替わり、例えば1行次の行は、何の断りもなくもう別の場面となっているということも常であり、しかも時系列は、前後に複雑に入り組んでいて、過去と現在と未来―そもそも、何を基準に現在と言えるのかという問題があるーが順番通りに出てくるわけではないのです。その上、登場人物も多く、しかもどれも耳慣れないカタカナで綴られた名前ばかりという有様です。先ほど「小説は書面作成にも役に立つ」と述べたこととの関係でいえば、もし裁判所にこんな文章を提出したら、敗訴は必至です。
私は、この奇妙な小説を読解するための対策として、ノートを取りながら読み進めることまで余儀なくされました。そのノートには、「これは単なる読み物なのか、それとも、何か深い意味のある小説なのか」との感想を漏らしています。こうして、大変苦労しながら、読み進めていったのですが、不思議なことに、どうしても先を読み進めたくなるのでした。このような文章を書ける才能は、尋常のものではないと思いました。そして、読み終わってみると、何とも言えない達成感を味わうのでした。私とは全くメンタリティーの異なる、異国ペルーの海岸近くの街あるいは密林のジャングルの中にある町で生まれ、必死に生活し、そして死んでゆく、雑多ともいうべき登場人物たちが、それぞれの人生を、時には意外な交錯を見せながら織り上げていく。一言でいえば、人生というそれぞれの物語を実感させてくれる小説でした。
この作品は、文章のスタイル自体は、法律実務の文章の参考には到底ならないものですが、しかし、このように何故か読む人を惹きつけてやまない文章が書けたなら、恐らく勝訴は間違いないでしょう。
読んでいない本がこんなに沢山あって一体どうするのか?!
このような次第で(どのような次第だ?)、私の書斎も最近、にわかに本が増殖しているのですが、そこで何とも悩ましいのは、読書意欲ばかりが先走って、購入したまま未読の状態で積み上げられる本を一体どうするのか、という問題の発生です。この点、『薔薇の名前』の著者として有名なウンベルト・エーコは、『文学について』という本の中でー彼は、ミラノとその他の家を併せて4万冊ほどの蔵書を有しているという前提ではありますがー書庫というものは、読み終えた書物を保管しておく場所というばかりではなく、いつの日にか必要になった時に読むことができるような書物を置いておく場所である、というようなことを書いています。また、イタロ・カルビーノも、冒頭に引用した本の中で、「現在の私たちにできることといえば、一人ひとりが自分の古典の理想の図書館を自分のために建てることぐらいしかない。その図書館の半分には、これまでに読んだ、今でも関係が保たれている本、あとの半分にはこれから読もうと考えている、信頼できるはずの本が入るはずだ。一部分だけは、空いたままにしておこう。今は予期できない、いつか出会って驚くだろう本のために。」と書いています。そうすると、本棚やその周りに積み上げられていく未読の本の山を見ても、それほど後ろめたく感じる必要はないようです。