弁論と民主制
2世紀後半に作られた『地球の歩き方・古代ギリシア編』?
パウサニアスという人物が著した全10巻の『ギリシア案内記』という本の抄訳が岩波文庫にあります(1991年発行・馬場恵二訳)。私はこの上下2分冊の文庫本を古本屋で見つけて購入しました。原典は、ローマ帝政期五賢帝時代の2世紀後半、パクスロマーナ(ローマの平和)が謳歌されていた時代に執筆されたものといいますから、相当大昔のものです。本の題名のみ見ると、『地球の歩き方』のような旅行ガイドブックとして書かれたものなのかと思ってしまいますが、実はこの大著が執筆された背景には、当時ローマ帝国の支配下にあって本当の自由を失っているギリシア人同胞たちが「古代ギリシア」を再発見することを期待するという著者の悲願があったとのことです。そして今日、この『ギリシア案内記』全10巻は、古代ギリシア研究のあらゆる分野でかけがえのない貴重な基礎資料だといわれています。何かをしっかり書き残すというのは、たいへん意義のあることなのだとつくづく思います。
古代ギリシアの裁判所
さて、この本に裁判に関係する記述が何かないかと頁をめくっていくと、第1巻28章の中に「アテネ市内の裁判所法廷」という記載がありました。そこではいくつかの裁判所が簡単に紹介されていますが、面白いと思ったのは、殺意がなくて人を殺した者たちに対する審判が行われる裁判所と、殺人を犯したのには正当な理由があったと主張する者たちの審判が行われる裁判所が別に設けてあるということです。前者は「パラディオン最寄りの法廷」、後者は「デルフィニオン最寄りの法廷」と呼ばれていました。この点、岩波文庫の訳注を見ると、アリストテレスの『アテナイ人の国制』という本に、「過失致死や殺人予謀、あるいは奴隷もしくは在留外人ないし一般外人を殺害した場合」にはパラディオンの管轄であったと記されており、また「殺人行為を犯したことを認めながら、例えば姦通者の現場を押さえたとか、戦闘中に識らずに殺したとか、競技中の最中とかのごとく、法律で咎められることはないと主張する場合には、かかる者はデルフィニオンで裁判する」と書かれているそうです。
更に面白いことには、鉄器、その他類似の無生物に対する裁判が開かれる「在・中央市庁舎」と呼ばれる法廷もあるというのです。これも訳注によると、『デモステネス法廷弁論』という弁論集に同法廷で無生物に対する裁判がなされたことの記述があり、また前記のアリストテレスの本に「パシレウスと部族長とは無生物および動物が人を殺傷した場合をも裁判する」との記事があるとのことです。
また更には、この『ギリシア案内記』の同じ箇所には、「ペイライエウスの海辺にフレアテュス法廷がある」と書かれています。ここでは国外亡命中の者たちが国内不在の間に、さらに別の告発を受けた場合、船の上から地上の聞き手に向かって弁明します。これについても訳注によると、前記アリストテレスの『アテナイ人の国制』には、「和解が成り立ち得るような殺人事件のために既に国外に退去している者が再び誰かを殺したり傷つけたりして訴えられた場合には、かかる者はフレアトスの神域で裁判する。被告は岸辺に停泊した船の中から弁論する」との記載があるそうです。
これらの記述を見ると、古代ギリシアにおいて既に裁判制度が充実していたことが窺えます。
弁論の起源は法廷にあり
ところで、弁論の起源は、古代ギリシアの法廷にあるといわれています。前4世紀、アテナイは訴訟中毒といわれるほど訴訟が盛んだったといいます。法廷弁論を通じて、弁論術は研ぎ澄まされ、精緻化していきました。先ほどの記述に『デモステネス法廷弁論』というものが出てきましたが、これはデモステネスという人の名で伝わる法廷弁論集で、当時法廷で行われた実際の弁論を収録したものです。
アテナイの裁判においては、現代の私たちが有している裁判制度と異なり、30歳以上の市民から毎年10の部族ごとにクジ引きで選ばれた6000人が民衆法廷(ディカステーリオン)の裁判員として裁判官役を務めるのであり、個々の裁判案件には、この6000人の裁判員の中から当日の裁判件数に必要な人員が早朝にクジ引きで選ばれます。また、アテナイの裁判では、検察官も弁護士もおらず、原告と被告がそれぞれ水時計で測られた所定の時間内に演説(弁論)し、いかに自分の側に正義があり、理があるかを裁判員たちに説得する。双方の弁論が終わると、一般市民で構成された200人を超える裁判員が、討論することなく、直ちに投票箱で投票する。したがって、原告と被告にとって、壇上における弁論の力が勝負であり、いかに相手よりも説得力のある弁論をなし得るかが生死を分けることにもつながります。
そこで、弁論術がとても重視されたわけです。この点、今日における私たち弁護士としても、個々の裁判案件において裁判官をいかにして説得するか、日々研鑽を積み、法廷での弁論や裁判書面の作成について細心の注意を払っています。
弁論と民主制
最後に、弁論と民主制の関係について。
日本国憲法の根底には民主主義の思想が存するのであり、民主主義が十全に機能するためには言論の自由が保障されていなければならず、そして言論の自由は、口頭によるものであれ文章を用いてであれ、「弁論」を通じて実践されていく。このように弁論は民主制と深く結びついている。実際、弁論ないし弁論術はアテナイにおける民主制の成熟とともに更なる発展を遂げたといわれています。
こうして弁論は、民主制を支える上で重要な役割を果たすものであることはいうまでもありませんが、ただ、今日の世界全体の状況、たとえばヨーロッパなどで移民排斥を訴える極右政党が勢力を伸ばしてきているという現実、基本的人権を著しく軽視する勢力が政権を担う大国がこの世界に複数存在しているという現実、また身近なところではヘイトスピーチがSNS上大手を振って飛び交っているという現実の下、民主主義が相対化され、民主主義が危機にあると言われている今日、弁論の在り方については、いろいろと深く考えなければならないことがあるようです。少なくとも、物事の実態を覆い隠し権力者の悪政を正当化するような弁論、あるいは弱者攻撃を正当化するような弁論は御免蒙りたい。
古代ローマ時代、ギリシアの伝記作家プルタルコスが述べた「あらゆるものを従わせ、手なずける弁論の力」という言葉は、洗練された弁論術を駆使しての弁論は人々を感動させ社会に大きな影響を与えるが、しかしその使い方を誤ると大変な結果をもたらすものにもなりかねないという警句として読むことができるのではないでしょうか。