日本国憲法と集団的自衛権憲法を破壊しようとする安倍政権の危険性
弁護士:梶原 恒夫
日本国憲法の立場
日本国憲法前文
▼憲法前文は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることをここに決意し」たと述べています。
国民の反戦の意思を踏みにじって政府が戦争に踏み出してきたというのがこれまでの歴史の事実でした。日本国憲法は、人類のたたかいの歴史を受け継ぎ、戦争を起こさないために、何よりも政府への批判と監視が必要なことを特別に強調しています。
▼また、憲法前文は、「平和を愛する諸国民の公正と信義」への信頼こそが、日本の安全を確保する道であると述べています。
市民が国家によって「完璧な安全」を守ってもらうのか。それとも、市民が国境を越えて連帯によってお互いの安全を守っていくのか。日本国憲法前文は、「平和を愛する諸国民(peoples)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という視点を示しています。戦争を起こす政府が現実に存在することを前提として、それらの政府の下で生きる諸国民の願いとたたかいこそ、平和の原動力であるという認識に立つもの。そこにおいては仮想敵国などは想定しない。軍事的な安全保障は日本国憲法とは相容れないのです。
すなわち、普遍的に妥当する世界平和の理念に向かって、現実的に一歩一歩、接近する、長期的・漸進的・総合的戦略としての高次の現実主義に立つのが日本国憲法の立場です。
▼そして、「諸国民の公正と信義」の障害となるもの、すなわち、「専制と隷従、圧迫と偏狭」、「恐怖と欠乏」を除去することを目指しています。
▼人権としての平和思想(平和的生存権)―国家の権限には絶対的な限界があるという思想
人権思想の発展という文脈において、私たちの憲法において特筆されるべきことは、憲法前文と9条に示された「平和的生存権の思想」です。国家が相争う時代、戦争が不可避であると考えられた時代を乗り越え、戦争と軍事力を否定し、「権利としての平和」を宣言したところに日本国憲法の先駆性が示されています。日本国憲法は、平和と人権とを切り離して考えるのではなく、戦争あるいは平和の問題と人権とを結びつけ、今日において本当にあるべき平和の実現方法を世界に先駆けて憲法に明記し、宣言したという点で、人類史の中で誇るべき画期的意義を有しています。武力による平和の実現という道筋が、ますます平和の実現とは程遠い結果しかもたらさないという今日の現実を直視するとき、憲法の目指す平和実現の方法の現実性は益々高まっています。
憲法9条の絶対的平和主義
▼戦争放棄、紛争の平和的解決の追求の立場(憲法9条1項)。そして、軍備の全廃、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(憲法9条2項)。
▼9条は、広島・長崎以降において、軍隊と戦争が伝統的意義を失ったことを確認するものでした。第2次世界大戦後の軍拡競争の時代は、人類を滅亡させるほどの核兵器・非核兵器の蓄積をもたらしただけではなく、軍拡競争に参加した全ての国の経済・財政に大きな打撃を与えました。ソ連は、その結果崩壊しました。一方、アメリカをはじめとする先進資本主義諸国も経済的、財政的苦境に陥り、その各国の憲法に定める理念を実現しにくい状況に陥っています。また、発展途上国の多くは、その名に値する実態を持てなくなっています。
▼安全保障の中心は、「攻められない」ようにするために、その条件をいかにして作り上げるかにあります。すべての問題を軍事的手段の問題に一面化されることは極めて危険です。
▼こうして、人類が絶対的平和主義に立つ「9条」を国内及び国際社会の法原理とする以外に、人類はもはや存続し得なくなっていることは明らかになっています。
▼カント『永遠平和のために』の一節:
「常備軍は、時とともに全廃されなければならない。
なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである.常備軍が刺戟となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついに平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。」
憲法の絶対的平和主義に真っ向から反する集団的自衛権
今、安倍政権は、民主主義・立憲主義を否定し、正々堂々と憲法改正問題を国民に問うことなく密室協議・単なる閣議決定で、憲法上到底認められないはずの集団的自衛権が憲法上許される「解釈改憲」を強行しようとしています。このように、憲法を二重に蹂躙し、破壊する暴挙は許せません。私たちの日々の生活を守るために、このような危険な企てに絶対反対の声をさらに強めましょう。
以上